…アレクサーが静かに語った話の内容は、私の想像の範疇を遙かに凌駕するに足るものだった

       彼がこのブルーグラードを代々統治する領主の家に生まれ育った事、そしてやはり彼の父もこの国の統治者であった事
       物心付いた時からこの国の貧しさ、そしてその境遇を強いられて来た理不尽さをずっと憎み、自分たちの自由を取り戻したいと考え、
       父であるピョートルに訴え続けた事
       アレクサーのその主張を父は武断的過激意見と見なし、七年前遂に彼を国内から放逐処分に処した事
       …そして、このままではブルーグラードの権益が損なわれ続けるだけだと考えたアレクサーが、二年前に自らを追放した父・ピョートルを自分の手にかけた事

       日本でのんびりと育った私は、彼が歩んできた人生の、そのあまりの苛烈さに言葉も無かった



       …彼に何か声を掛けようとして、一体何と言えば良いのか皆目見当もつかず、は時折俯きがちに頷くだけだった
       やがて、カップの持ち手に添えられたの指が強張ったまま動く気配を見せない事に気づいたアレクサーは、僅かにその眉尻を下げて呟いた


       「……驚かせてしまったかな、突然こんな話をして。
        俺自身、今こうして君に自分の過去を自らさらけ出している事に驚いている。
        …幾らこの国の為とは言え、自分の父親を手に掛けるなど誰の目から見ても許されない事だからな。
        自分でもその罪の重さは身に染みて感じている。…あの日からずっと、今現在に至るまで。
        だから、ずっとその事は誰にも話さずに、自らの心の裏に封じ込めて来た……今の今までは。
        だが、何故だろう…どうしても君には聞いて、そして知って欲しかった、この俺の事を。」

       「…アレクサー…。」


       は俯いていた顔を上げてアレクサーを見た
       先程まで微かに浮かんでいた厳しい表情は影を潜め、アレクサーの顔からは今や慚愧の念すら受け取ることが出来た

       …この人は、苦しんで来たのだ。自らが犯してしまった過ちに。
       そして同時に、しかしそれがこの国の民の幸福を彼なりに思って為した事であると言う真実との葛藤に
       確かに、父親を手に掛けてしまった彼の罪は拭いがたいかもしれない
       けれど、今の彼は十二分にその罪の重さを自覚している。だったらこれ以上彼を責める権利は誰にも無いはず。…私も含めて
       それに、何よりも重要なのは、彼の瞳の中にまだ闘志が宿っていること
       …アレクサーは、まだこの国を…この国の人達を救う事を諦めてはいない
       この人の奥底に息づく眩しいほどの激流を止めることなど、きっと誰にも出来はしない

       そこまで考えて、は突然はっとした


       …カノンはきっと、アレクサーの動向を警戒しているに違いない!
       …でも、何故?
       あの晩、アレクサーを見たカノンは凄まじい形相をしていた。でも、アレクサーはカノンの事は知らないみたいだった
       つまり、二人の間に直接の面識は無いと言う事だわ
       じゃあ、一体どうして…

       の脳裏に、憂いを浮かべた少女の姿が一瞬よぎった
       だが、次の瞬間にははその疑念を払拭した

       …あの総帥が、そんな事を思される筈もない。あってはならないことだ、…絶対に

       交錯する疑念が複雑にマーブルを描く中で、は多くを考えまいと唯深く頷いた


       「アレクサー。貴方はこの国の自由の為に闘うと言った。
        この国の多くの人々を救う為に、私も貴方と共に闘って行きたいと思うわ。
        …でも、どうやって?貴方は一体どうやって闘って行くつもりなの?」

       おそらくカノンとは異なった意図で、は気に掛かっていた事をアレクサーに尋ねた

       …今の彼は、昔の彼とは違う。さっきの彼の後悔に満ちた表情がその何よりの証
       だったら、彼が「武力」以外の如何なる手段を以てその不条理に立ち向かおうとしているのか、私はそれを知りたい
       …そして、彼の力になれたなら!

       はいつの間にかその身体をテーブルに乗り出してアレクサーを正面から見据えていた
       端から見ればまるで密談でもしている様だが、今この部屋にはアレクサーとの二人だけだ。何か別の存在を気に掛けるべくもない
       アレクサーはに呼応して僅かに頷くと、カップを持っていた指をテーブルの前で軽く組んだ


       「…そうだ。俺は今も諦めてはいない、この国の僅かな権益を取り戻す事を。」


       組んだ手の上に載せたアレクサーの顔から、厳しい眼光が発される

       …この光。あの夜に私が見上げた眩しい光が今私の前で再び煌めいている
       それにしても、何と言う激しさなのだろう

       一瞬でもその激しい眼差しに自らを射抜かれてみたいと考えて、は背筋がぞくりとした

       …私、どうしようもなくこの男〈ひと〉に惹かれている。……そう、もう引き返せない所までに……


       「二年前、俺は武力に頼ってこの国を解放しようとした。…それに反対した父を切り捨ててまで。
        だが、結局は失敗に終わり、俺は辛酸を舐めたまま闇に身を潜めた。
        しかし、それで全てが終わった訳では無い。
        俺はそれから一体どうするべきか考え続けたんだ。…武力以外の方法でこの国の自由を勝ち取る道を。
        …そして、俺はたどり着いた。一つの道へ。」


       アレクサーは傍らから一冊の厚い書物を取り出した
       の知らないロシア語の単語が表紙に刻み込まれたそれは、酷く古い物である事だけが窺える


       「…それは…?」

       「これは、法律の本だ。…残念な事に我が国の物ではないのだがな。…これがどう言う事か、君には分かるか?」


       アレクサーの鋭い眼光が、更に鋭い光を帯びた
       本の背表紙を凝視したまま、は僅かに首を傾げる


       「…そうだ、俺たちのこの国には明文化された法律が存在しない。…これでは内外を問わず、有事の際に問題を処理する基準が無きも同然。
        そして照らし合わせる法律も存在しないからこそ、些細な事も武力で解決せざるを得なくなってしまう。
        …勿論、武力を放棄しろとか軽んじている訳ではない。
        唯、武力だけを基準にして全てを解決しようとするのでは『国』として酷く非効率的で、国の内外に取って好ましい事態を招くとは言い難い。
        国内においては軍備に過度な負担を要するだけだし、国外に対しては無駄に警戒を煽ってしまう。
        実際、そうした誤解から過去に幾つも諍いが生じている。…そのなれの果てが今のこの状況だ。外患内憂とはこの事に他ならない。
        …だが、明文化した法を作ればこの悪循環を断ち切り、少しでも事態を好転化させる一つの手掛かりとなる。
        だから、俺はずっとこの国にふさわしい法律を作り、それを施行する道を一人で模索し続けている。
        この国に範たる法が無い以上、できれば外国(そと)の大学に留学して学ぶつもりだ。」

       「…法律と、施行…。」


       日本と言う一つの法治国家に生まれ育ったに取って、アレクサーの語る言葉の一つ一つが非常に重く、感慨深いものだった

       確かに、アレクサーの言う事には一理も二理も有る
       なまじ「法があって当たり前」の社会に育って来た私には却って盲点だったかもしれない


       「…長い道になりそうね。」

       「ああ。それは俺も重々承知しているつもりだ。
        だが、全く意義の見いだせない武力闘争を続けているこの現状を打破するためには、これが最善の方法だと俺は確信している。」


       アレクサーは、窓の外を青い瞳で見つめた後、再びに視線を戻した


       「法律を作り上げたとして、その後はどうするの?」

       「法が完成したら、それを円滑に施行するためにまず、この国に議会を作る。…無論、議員は国民の意思によって選ぶ必要がある。
        選挙制度の設立と整備も同時にこなしていかねばならないが、これは最近独立した近隣諸国の制度をある程度は参考に出来るはずだ。
        …いずれにせよ、時間の掛かる話ではあるが…。」

       そこまで言うと、アレクサーは一つ溜息を落とした
       今はまだ若い自分であるが、それらの実現する頃には一体どれほどの齢に達していることだろうか
       アレクサーの逸るその心の裏(うち)を察し、も沈黙を守った

       焦りは禁物。
       それは嘗ての自分自身の過ちから充分学んでいる筈ではあるだろうが、
       やはりその目的勾配を思うと今後並々ならぬ忍耐と努力を強いられるのは自明の理だった
       いくら強靭な精神力を持ち合わせているとは言え、アレクサーは青年期に入ったばかりの若さなのだ
       落ち着いた外見の中には若者らしい激しい熱が人一倍滾っているのがテーブル越しに充分すぎる程伝わってくる


       「焦っては駄目よ。…アレクサーの考えている事、きっと実現できると思う。
        時間が掛かるかどうかは判らないけど、二人で出来る事を一つづつ実行して行きましょう。」

       伏せた目を上げ、は静かに、だが力強くアレクサーを見据えた


       「…?」

       「私も、その手伝いをさせて欲しい。法律に関しては殆ど判らないけど、私でもきっと何か出来る事がある筈だから。
        今私がやっている仕事も、元を質せばこの国の人たちのためだもの。」


       アレクサーはの言葉に少々驚きながらも、自分に向けられたの瞳を心強く感じた

       自分よりいくつも年上のこの女(ひと)をとても眩しく思いもするし、また同時にその真っ直ぐな心を守りたいとも思う
       …なんとも不思議だ
       「信頼」と言う物と、そして何か胸のもっと奥底から湧き上がる感情の二つをに対して同時に強く抱いてしまう
       だが、それは決して不安な心地ではなく、寧ろ今までの自分の焦りや孤独感が吹き飛ばされるようだ

       アレクサーは自らの心の裏を省みて微かにその険しい目元を緩め、テーブルの上のの白い手にゆっくりと自らの掌を重ねた


       「…、君となら何でもできそうな気がする。俺の方こそ、君にお願いしたい、
        …俺の、力になってくれるだろうか?」


       アレクサーの手が、の手を強く握った
       それは紛れも無い「男の力強さ」で、は内心どきりとした

       …私、この男(ひと)の事を本当に好きになってしまった…

       目の前の青い瞳を、はその黒い瞳で見詰め返した
       アレクサーの青眸の中に、自分の姿とこの国の沢山の人たちの未来が垣間見えた気がした

       …この男(ひと)と、この男の国の総てのために…!


       「ええ、喜んで。アレクサー、貴方と一緒に。」


       が短く、そしてゆっくりと答えると、アレクサーの表情が俄に温かく変化した
       アレクサーはその両の手での掌をゆっくりと握り締めた


       ドアをノックしようと廊下で立ち止まったナターシャは、室内から洩れて来る二人の温かな空気に触れ、
       熱い紅茶のポットを手にしたまま静かに階段を降りて行った










       翌週から、は土曜になるとアレクサーの元を訪れて話し込む様になった

       カノンの意図は今のところにもよく判らないが、自分がアレクサーと密会している事を悟られるのは避けた方が無難なのは明らかだった
       「ナターシャと今後の巡回計画の話し合いをするから。」と偽り、は家を抜け出した

       …猜疑心の強いカノンの事だ、いつかは判ってしまうかもしれない

       「………。」

       閉ざされた玄関のドアの内側で、カノンは無言での後ろ姿を送り出していた





       アレクサーの元に通い始めてからと言うもの、の生活はますます多忙の一途を辿った

       平日はNGOの仕事に追われ、週末にはブルーグラードに適した法制度や国際法などについてアレクサーと共に話し合った
       勿論、NGOの資料作成や報告書作りの仕事もあれば、法律や政治学の調べ物も山積みだ
       畢竟、家に居ても食事の時間以外は部屋に篭りがちになった
       カノンが訝しがらない筈は無いのだが、今のにはカムフラージュを出来るだけの余力は殆ど残っていなかった

       体力的にはかなりきつく感じる事もあるものの、それでもは一種の充実感に漲っていた

       …今は何より、アレクサーと力を合わせていられることが一番嬉しい

       アレクサーの手を、長い指を、金色の髪を、青く澄んだ瞳を。
       疲れを感じた時、はじっと目を閉じて脳裏にその姿を思い浮かべた

       土曜に彼と綴る一時をは何よりも愛しく思った
       そして、それはアレクサーの方でも同じ事で。
       週末が近くなるに連れて明らかに表情が明るくなる兄に、ナターシャは驚くと共に嬉しくも思っていた
       表立ってからかいはしないものの、兄の大きな背中を突付いてみたい気分になる事もしばしばだった

       …一時期の彼は、それは大変な塞ぎ様だったのだから
       今でもアレクサーが「父殺し」の呪いを必要以上にその身に背負い込んでいることも知っている
       自分にとっても「父親」だった人間を殺めた兄だが、だからと言って憎いかと言えばそうではない
       総てが不幸な運命だったと、ナターシャは随分前からそう思うことにしていた
       自分も辛いが、それ以上に兄はずっと辛い思いをしているのだ
       父はもう帰って来ない
       …だが、兄は精神的に死を迎えるにはまだ早すぎる
       が…敬愛すべき人であるが兄を支えてくれたなら。
       そして現実に、日を追って二人の距離が縮まって行くのを目の当たりにして、ナターシャは神に感謝を捧げたい気持ちで一杯だった

       …このまま、ずっと
       どうか二人が幸せに包まれていますように…

       ナターシャは、窓の外の青い空にその白い手をそっと握り合わせた










<BACK>          <NEXT>